山と人

久しぶりに、小屋泊の登山をした。
本当に久しぶりな上、平地での体力づくりも怠っていたものだから大変。
同行者についていくことがとてもきつい。
おまけに、不慣れで要領が悪い。
反省ひとしきりだ。


同行者に助けられてばかりだった自分が言うのもなんだが、
自然に身を置くと、助け合う気持ちや、人と親しみたくなる気持ちがいつもより大きくなるのかもしれない。
どこかで自然への畏れを感じてるのかな、と思う。
もしくは、日々のしがらみを離れれば性善説が成り立つ、そうならばとても素晴らしいのだけど。


一度の登山で、
すれ違っただけのたくさんの人たちと言葉を交わして、まだまだ若いから大丈夫!と励まされた。
息を上げてしまったら続かないよとアドバイスをもらった。
どこそこのお花畑が綺麗だったよとか、この道は地図で見てる以上にきついとか、ルートの情報を教えてもらった。
帰りにてくてく車道を歩いていたら、途中まで車で送ってあげるよと声をかけてもらった。
見知らぬ人たちが皆ただただ善意で接してくれた。

私自身も、
山の挨拶はマナーというが、マナー以上に、能動的に出会う人たちに声をかけていた。
山の上では普段より随分饒舌で、日頃話さないプライベートなことを喋っていた。
あいにくの天気で夕焼けも星もご来光も微妙だったのだけど、見えるかなとみんなが空を見上げながら待っていて、見えないとわかると何となく顔を見合わせて、なんだかそれがほっとしておもしろかった。
私はひとりで過ごすのが好きなほうだけど、緩やかに人と居られることが心地よかったし、山小屋での雑魚寝も(いびきや物音がうるさくて眠りが浅くなったとはいえ)特につらくはなかった。

そして、私も人の役に立ちたいと強く思う反面、自立していなければ助けられないことに気づいて恥じた。


互助とか共助とか世間では言うのだけど、
平和な日常生活では、自助ができている間は互助や共助には目が向かない。
お互い様?いや、助けてもらったことないから。むしろ、お互い様となると返礼を考えることが煩わしい。っていう本音が多いのではなかろうか。
少なくとも私はそういうタイプの人間だ。
私の領域に無闇に手を出さないでくれ。そっちはそっちで勝手にどうぞ。そんな感じ。

自分の荷物を自分で背負って、食べるものも飲むものも着るものも自己責任で選んで持っていく。
自分の能力や体力を知り、計画する。
万が一を予測して、事態に備える。
そういう世界の中で、私は自立できる自信がなく、実際人に頼りながらでないと山の上にたどり着けなかった。
足手まといとも言わずに仲間として一緒に行動してくれる人がいることのありがたさといったら。
お互い自分のペースでやればいいから、あなたも勝手にどうぞと言われたら、どうなっていたことか。


親切や助け合いで救われる人がいる。自分も、救われることがある。だから、自立して、人を助けられる身でありたい。
なかなかこんなことを考える機会のないわがままな生活をしているので、感じたこと自体を大事にしておきたいと思う。



さて、高尚なことはひとまず、体力作りも自立の一環だ!ということで、まずは筋トレをしているのである。
また山に一緒に行こうと言ってくれる人がいる。その人たちと、助け合える自分でいたい。