勇気の問題かどうか

職場の後輩どうしの関係が悪い。
いがみ合いだったらまだよかったのだけど。
年上から年下へ、指導を通り越してすでにパワハラ的雰囲気を帯びている。

どうしたものかと上長と相談しているが、当人の受け取り方しだいではパワハラにあたるのでは?と訴えても危機感がない。
むしろ、理由があって指導している、つらくあたってしまうことに年上の方も悩んでいる、と擁護する始末。
年上の方は積み上げた信頼厚く、気配り上手で、可愛がられている。年下の方は確かに仕事ができないし、コミュニケーションが下手で、暗い。
上長にもバイアスがかかっていると思う。

この少人数の部署で、全くの中立な非当事者は今のところ私だけ。
なんだか、自分の正義感とか公平感とかの感覚がわからなくなってしまう。
もしかしたら私が年下の方に肩入れしすぎなのか?
いやしかし、何がどうあれ、指導という名目で人が傷つけられることはあってはならない。
そんなところを行ったり来たりしている。

見逃してきたのは私でもある。
年下の方から私へ相談があったわけではないから、彼女の気持ちがわからないとはいえ。
あるところでラインを超えたと判断して、割って入っても良かった。今思えば。でもそれは、上長がまずやるべきことだと思っていた。
今からでも個人的に割って入るべきなのか。
それには、勇気が要る。
私にも、上長や年上の方の後輩との関係ってもんがある。人の少ない職場で全員の関係が悪くなれば、それは悪夢だ。誰か辞めてしまうだろう。私含め。

勇気がないから言い訳しているだけだとも思う。
でも、勇気だけ持って突っ込んで行くのも間違いだと思う。
勇気を持って行おうとする行為も、ただ自分が綺麗でいたいだけ、自分がすっきりしたいだけ、そんな気もする。

吟味した結果タイミングを逃すのは、私の悪いところだ。慎重さや思考することの、裏表の短所。
だから、次のタイミングはきちんと見計らわなければ。
毎日、そう思ってすごしている。

かなしさ

産業カウンセラーの講座に通っている。

後期に入り、残りの面接実習もあと6回程度。先日、いわゆる逐語記録、面接内容のテープ起こしを終えた。心身共にくたくたになった。


そして、逐語記録の提出日、指導者との面談があった。
私の前に面談したメンバーが泣きながら出てきてギョッとした。たった10分の間に何を言われるんだ…!?
そもそも緊張しやすい私は、手に汗握って面接室に入った。

まずは指導者から、聴く態度はしっかりできていると褒めていただいた。自分の思いを聞かれたので、クライエントの感情についていけないことを話した。

続いて、指導者から見た私について話してもらった。
かなしさ、つらさ、そうした感情を否定的に思っていないか。よろこび、たのしさと、かなしさ、つらさは本来等価なものだが、かなしい、つらいと感じてはいけないのだろうか?と。
それに対して答えようとして、ついうっかり、かなしさやつらさを「否定的感情」と言い換えている自分に気づき、固まってしまう。
かなしい、つらいと言ってる人に、どう慰めの言葉をかけていいか、昔から苦手だ、と打ち明けた。すると、慰めないとだめなんだね?と返ってきた。
うおおお、慰めなくてもいいのか!?!?混乱してまたフリーズし、涙目。


かなしさやつらさを否定している、そんなこと考えたこともなかった。
そういえば、面接実習で私がクライエント役だったとき、つらい話なのに笑いながら喋っていて違和感があると言われたことがあった。私のことを、いつも悪いことを話さない人だと評する人もいる。なんだか繋がる。

子供の頃から長子としていいお姉ちゃんでいなければならなかったから、弱音を吐いたり、嫌だと駄々をこねたり、泣いて訴えたりすることはできなかったなと思い出す。かなしくてつらくてどうしようもないときは、いつも部屋で一人で泣いていた。
仲間にそういう気持ちを打ち明けることもなかったな、そういえば。なぜなのか、まだ自分でもわからない。
救いなのは、夫の前では泣けることかもしれない。そういえば私、夫に育て直してもらっている気がすることがこれまでも多々あったけど、やっぱりそうなのかもしれない。


自己理解って難しい。
私は結構できてる方だと勝手に思っていた。でも、月の裏側のように、意識の表には絶対に現れず、見も知らぬ想像もできぬ自分が無意識の中にいるんだな。
知らない自分を知るってすごい体験だ、って語彙が限界で陳腐な表現しかできないけど。混乱と驚きで眩暈しそうな感覚がする。
指導者との面談はカウンセリングではないから、自分で気づく前に指摘されてフリーズしちゃったんだな。

インサイド・ヘッド、っていうアニメーション映画があったよね。とりあえず見てみようかなって、今ちょっと思ってる。
それ以上はまだ、考えられない。
ぼちぼちと着々と、自己理解について考えていくしかない。

奥さんはお弁当作らないんですか

お昼ごはんに外注の弁当を食べていた男性の同僚に対して、他部署の女性が言ったことば。

このことばに続いて、奥さん仕事してないですよね?という確認。
男性は、妻は自分と同じ時間に起きるから作るのは難しいと言い、
女性は、自分は早起きして家事をやりきってから家を出てくると言った。

この言葉の真意って?と思ったら勝手に面白くなって仕事中の数分トリップしてしまった。
悪趣味かもしれないけど、私にとってはパズルゲームを解いているかのような楽しいお題。


その男性は、とても家庭を大切にする人。適齢期に結婚して子育てするのがこの人にとっての当たり前。社会的に見せる顔では平等性や権利意識を大事にしているけど、根っこは伝統的なジェンダーロールを受け入れている。
彼は妻を庇うつもりで応答している。なぜ庇うかというと、仕事してない妻が弁当を作ることを当たり前だと思ってるから。たぶん、作れるなら作ってほしいんだと思う。でも言えないんだよね、家庭の中では。きっと、今時そんなこと妻に要求するべきじゃない…!とか、葛藤してるだろうと思う。

女性のほうは、仕事家事子育て趣味の全部乗せができるパワフルな人で、そのことに自負も持っている。彼女の夫は(私から見たら)亭主関白。彼女の中ではフェミニンな女性、マッチョな男性がスタンダード。
仕事してない女性は夫の弁当を作るべき、という考えがベースにあるのは明らかなのだけど、それよりもっと、自分自身が家庭のことも頑張った上で仕事しているということを言いたいのだと思う。あるいは、自分はマッチョに仕事してるけど、女性的なのだという訴え、かもしれない。家では家事をしても誰も成果を褒めたりしないし、職場では彼女の女性らしさを評価することはないから。


うちの夫も愛妻弁当にありつけない人で、もしかしたら周りに「奥さんはお弁当作らないんですか」って言われてるかもしれない。多少申し訳なさを感じるけど、面倒だから作らない。夫婦間でも合意してることだし。
反対に、私が社食で食べてると「旦那さんの会社も社食なの?」という質問にあう。飲み会なんかだと「ご主人は夕飯どうしてるの?」という変形バージョンもある。さあ?何食べてるんでしょうね。好きにしてるんじゃないですか〜。という返答が私のデフォルト。
たまにイラっとして、ジェンダーフリーダイバーシティ共同参画…とか、呪文だかお経だかのように唱えたくなってしまう。


そもそも私自身がジェンダーのコンプレックスにとらわれてるからこんな記事書くんだよなぁ。
この場でジェンダーフリーを訴えたいわけでは全くないんだけど、ジェンダーというのはしみじみ根深いもんだなと思う。

レジリエンス

最近気になる言葉。

社会的ディスアドバンテージや、己に不利な状況において、そういった状況に自身のライフタスクを適応させる個人の能力と定義される 。それら不利な状況やストレスとは、家族、人間関係、健康問題、職場や金銭的な心配事、その他より起こり得る。

脆弱性 (vulnerability) 」の反対の概念であり、自発的治癒力の意味である。「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」などとも訳されるが、訳語を用いずそのままレジリエンス、またはレジリアンスと表記して用いることが多い。
wikipedia: レジリエンス (心理学)




私は庭に対してナチュラルという名の放置プレイスタイルで挑んでいて、施肥は晩秋のバーク堆肥のみ、殺菌殺虫剤は使わない。
そんなことしてると、バラみたいに人間が好んで利用するような植物は、気づいたらあっという間に虫にやられる時がある。


うどん粉病の女王との異名を持つ、ミミエデンというバラがある。人が手を入れなければ生きていけないような、か弱い美しいバラ。
うちにも1株あるのだが、私の観察不足と薬剤使わないポリシーのせいで、去年の春夏にカイガラムシにやられまくって瀕死になりほぼ全体が枯れた。株元の小さな新枝だけが生きていた。
もはやほぼ枯死したも同じ状態。半分やけくそで親株を株元までバッサリ切った。ついでにやけくそで地植えにした。このバラは鉢での管理が当たり前だが、鉢で私が下手な手当てするよりも自然に任せてみようと思って。
そしたら、秋にはその小さな新枝から綺麗な葉枝がたくさん出て、花まで咲かせた。いやいや、ミミエデンよ、って呼びかけたくなった。本当に感動したのだ。
そして今春はまた一回り大きくなり、赤い芽もたくさん出た。

他のバラも、原種のバラですら、卵を産み付けられて枝が裂けたり、芋虫に食いちらかされたり、ポッキリ花芽を折られたり、虫たちに好かれてめちゃくちゃにされる。なのに思ってた以上に復活してくる。
美しさも相まって儚いように見えても、あるいは人がせっせと保護しなきゃいけないように言われていても、実は蘇る生命力も、適応する能力も、すごく強いと思う。そうでなきゃ、北半球じゅうのあちこちで子孫を残せてきたはずないのだ。

それで、私はレジリエンスという言葉を知った時、ミミエデンやバラのことを思い出した。
別に、他の植物に対してバラのようであれと言っているわけではない。人に、バラのように美しく強くあれと言うつもりもない。ただ、私にとってレジリエンスという言葉はあのミミエデンのイメージなのだ。
私だったら、地植えにされた時点で私の居場所じゃないと腐ってたかもしれない。わざわざこの逆境で秋バラを咲かせる必要ないでしょって手抜きしたかもしれない。カイガラムシを駆除しないあるじを恨み続けてたかもしれない。
そんなことをつらつら考えていると、バラの在りようから学べることがまだまだありそうなのだ。そして、それが私自身のレジリエンスとなるならこんな幸いはないと思う。

内向型に幸あれ

私は内向型か外向型かといえば、内向型だ。

薄々思っていたことが大学の心理学の授業で確信になって以来、私らしさとして受け入れてきた。

 

というか、そもそも実生活において、微塵も外向的要素がない。だから、心理検査や何かする以前に内向型であることは疑いようもない事実だ。

「お一人様」なんて言葉が世に出る以前、女子高生の頃から、食べたいものがあれば1人で外食していた。独身の時は、川辺や公園に1人で出かけてパンやファストフードを食べるのが好きだった。ただそうしたいからそうするだけだ。

休息が欲しい時は、家でインターネットしてるか、もしくは庭で植物を観察したり手入れしたりして、1人で過ごす。

結婚式の二次会とか、宴会とか、研修先での名刺交換とか、言っちゃあ悪いが帰りたくなる。

中途半端な人に、辛いことがあったなら聞くよ?と言われても、結構です、と思ってしまう。

そもそも、付き合いがある人のうちのほとんどを友達だと認識しておらず、重要視もしていない(ひどいけど、実際そうなんだもん)。ただ、社会的な必要性を感じるからメールや年賀状やお祝いなどはしている。ほんとうの友達とは、年に2回ぐらい会えればそれで充分だ。

今更苦悩しているのは、ガールズトークができないこと。ガールズトークにストレスを感じるからと距離を置きっぱなしのままおばさんになった今、奥様の世間話には愛想笑いで固まっているしかない。彼女らの話題について、話したいこともなければ、聞きたい話もない。近所の奥さんキャラ、お嫁さんキャラとしては最悪だ。

ちなみに、コミュニケーションは普通程度にはできる。が、面倒くさいと思う。ユーモアの能力とかはほぼない。

小、中、高、大とふつーに友達がいて、ふつーに人と仕事してきた。ただ、協力してやりましょう、密な連携を、とか言われるとちょっとつらい。グループワークやセミナーも嫌いだ。1人でさっさとワークをやるか、あまりコミットせず傍観しておくか、そうやって適当にこなすことが多い。

 

私自身、内向的であることを受け入れて比較的長い期間生きてきたが、やっぱり世の中は外向的である方が生きやすいと思う。

学校でも仕事でも、外向的である方が目立つし、評価も高くなる。スクールカーストのトップは外向能力が高い人だろうし、同じ能力だったとしても賞賛されるのはプレゼン上手な外向型だろう。

それに、絆とか、助け合いとか、その手の善意の言葉や行動も、場合によっては内向的な人への無意識的な暴力をはらんでいる。「みんなで」頑張ろう、が、正義として振りかざされ、1人で考えたり作業したりすることを阻む。1人でいることを異質で異常なものとして排除しようとする。

理解されにくく、表明しにくく、自罰的に、自虐的に、自分の性質を訳もわからず持ったまま立ち尽くしてる人がきっと多いだろうと思う。

 

最近、読んだ本。

原題は、「Quiet」。なんでこんなださい邦題つけちゃったのかな。静かなる力、でいいのにね。

アメリカのビジネス本特有の、誰々がこうして成功した、みたいな語りが続くのはちょっと閉口だけど、内向型の人の自己肯定や自己理解に役立つと思う。

著者は心理学者ではないが、内向型である著者自身の取材や体験とあわせて、心理学や生理学の研究がたくさん引用されていているのが面白い。

内向型の人には頷けるエピソードがたくさん出てくる。私も、この本の登場人物と同じく、内向型に向いてないオフィスで、内向型に向いてない複数同時並行で慌ただしい仕事をして、エネルギーが枯渇してくたくたになってる1人だ。この本に出てくる教授のように、疲れたらトイレの個室で小休憩を取っていて、下の隙間から靴が見えないように足を引っ込めて座っている…笑

この本の中で言われる内向型には、共感性や繊細さ、敏感さも含まれている。著者は他人の心にも敏感なようだけど、私は人の感情には非同調的なので、腑に落ちない部分もあるにはある。一応あとがきに、心理学の世界でいう(例えばビッグファイブとかの)内向性とは定義が違うよ、ということが書かれていて、一応納得。そういえばこの本心理学の本じゃなかった。

 

アメリカといえば外向型の総本山で、アメリカンジョークを交えてユーモアたっぷりに堂々と演説する人が活躍するイメージ。日本のパーリィピーポーもびっくりの社交家がいっぱいいるのだろうなと思う。そんな中で、弁護士という花形の仕事を退いて、こつこつ取材して、アメリカ文化の否定にもなりかねないこういう本を発表できる彼女は強いよね。それこそ、静かなる力、だ。

この本では、アジア圏には内向的であることをよしとする文化があることが書かれている(ちょっと内向型論のために都合よく書きすぎのようにも思うけど)。確かに、日本はのび太くんがメインキャラとして許される世の中だし、アメリカに比べたら内向型が生きやすいのかも。

まあ、のび太くんよろしく、学校生活が合わなくて小中学生の頃苦労する内向型も多いと思うんだけどね。内向型の静かな力が、環境や動機づけさえ調えば、いつかドラえもんを生み出すかもしれない。ということが理解される世であってほしいなと切に思う。

ストレスコーピング

何せ仕事が忙しい。過労死しちゃうサラリーマンに比べたら鼻で笑われるぐらいの残業時間だけど。

お疲れモードで気分も沈み気味で、最近はちょっと休みがあっても何にもしないでスマホ片手にゴロゴロしてた。

おかげで家はめちゃくちゃ。ごはんは常に鍋。

憂さ晴らしで、残業代を好きに使ってやる!!という暴挙を行い、ネットショッピングしたものが今朝届いた。

 

自分的にあり得ない値段の綿の白いパンツ(ショーツではない)

庭に植える植物

書いてみたらあんまり暴挙してない気がしてくるけど、ネットでポチッと買った時は何だか罪悪感と達成感で溢れてたのだ。

 

それで、新しいパンツを履いて、春に着れそうな服を片っ端から合わせてみた。

楽しい。

一通りやり尽くして、元気になって、昼ごはんも食べずに着替えて庭に出た。

 外は汗ばむ陽気で、今日咲いたらしいクロッカスがピカピカしていた。

 

駐車場、エントランス、そしてほんの6畳ぐらいの庭に低木とたくさんの宿根草を植えている。

仕事が忙しい、は言い訳だけど、こんな小さな場所でも手に負えない。冬は放置状態。

だからこそ、肥料や水やりがあまり要らないように、ナチュラルでも育つように、植えるものと場所を慎重に選んでいる。

考えて考えて植えても、合わないで枯れていくものや、虫に負けるもの、意外と育つもの、いろいろ。予測不能

調子が悪いと心配し、枯れれば悲しみ、食害する虫を憎み、瀕死からの復活に感動し、芽吹きや開花が心から嬉しい。

人相手よりもよっぽど、あるがままの感性に従って接している。

 

新しい草花を植えて、植え場所が気に入らないものを植え替えて、枯葉や枯れ枝を綺麗にして、病気になったクリスマスローズを花もろとも泣く泣く引っこ抜き、庭全体に水をやった。

3時間ほど庭にいて、腰の調子は悪くなったが、すっきりした気分になった。

緑と土は薬だ。

まあ結局、庭に気力と体力を使ったので家事は後回しになったのだけど。いいよね。

感情

昨年11月から、産業カウンセラーの通信養成講座に通っている。

面接実習に月1〜2回通いつつ、宿題もしつつというのが社会人には結構ハードなのだけど、なんとかかんとか真面目に出席中。

 

自分にとってずーっと課題なのが、人の感情を感じる感性がどうも人より鈍いこと。

カウンセリングを学ぶには致命的な気もするが、感情を論理的に冷静に理解できるというメリットなのかもしれないとも思う。

カウンセラー役をやりながら、技法として「感情への応答」を行っていくのだけど、本当難しい。クライエントが言葉で表現した感情を拾うのが精一杯で、クライエントが言葉で表現していない感情には気づけず、あるいは気づいたとしても伝え返す語彙と反応速度がなく、もう苦闘の連続である。

まあ、努力はしてみるつもり。

そして、やっぱり実習メンバーの中にはナチュラルに感性豊かな人がいて、めちゃくちゃ羨ましい。本当に本当に本当に羨ましい。

なんだろうな〜。なにが違うんだろう。

 

自転車に乗れない人とか泳げない人は、いくら説明されても乗れないし泳げない、ってのと一緒かもしれない。

問題なのは、トレーニングしてたらいつかは感覚をつかんで使いこなせるようになるものなのか、もしくはトレーニングしてもハンデは残るのか、ということ。

いや、別に、遠泳したいとか、100m60秒で泳ぎたいとか、そういうことではなくて。まずは、習ったフォームを守って50mばかし泳ぎ切れたらいいな。